MENU


李妍雅様のみ言

2010年11月27日、韓国ソウルにおいて、韓国天寶会(チョンボヘ)の定期総会が開かれました。総会議事に続いて、第二部に特別ゲストとしてお迎えした李妍雅(ヨナ)様のみ言をご紹介します。


 天宝会の会員の皆さん、こんにちは。食口の皆さん、こんにちは。資格もない私がこのようにこの場に立つようになり、本当に申し訳なく、そして栄光に思います。今日は天気が、雨がたくさん降って、ここに来るのも大変だったでしょう。でも、このように皆さんが集まって、天宝会の会合を開けるようになり、本当に嬉しく思います。
 社団法人・多文化センターで、江利川会長が天宝会の総会が今度あるので来てくれませんかと言われて、本当はとても躊躇しました。事実、私は本当に資格がないと思ったのですが…。韓国天宝会の初代会長の西海さんが、天宝会の総会で、天宝会の会員の兄弟たちをどのように育てればいいかについて、助言してくださいませんかと言われたので、勇気を出してやってきました。
 私がこれからお話しする多くは、客観的なことというよりは、主観的なことが多くあります。私がどのように経験し、どのように感じたかという。ご存じと思いますが、私の弟は知的障害があります。約5、6歳の知的障害を持っています。そのため、その弟の姉の立場で、兄弟の立場で、食口の皆さんに少しでも役立てばと思います。
 一般的に、私は障害児童という表現を使いますが、その表現が少し気に入らないとか、他にもっといい表現があれば、推薦してくれませんか。(反応なし)それでは、いったんそのように表現することにします。

 障害児童をもつ兄弟は、とても早く成熟するように思います。また、心情が非常に深く、他の人に対する配慮が身についています。なぜかというと、そんな兄弟がいるので、面倒を見てあげないといけないということが強い、何というか、責任感が強く、独立性も非常に強い。なぜかというと、両親が自分にしてくれることは多くないということを知っているので、幼い時から自分のことは自分がしなければならないということが強いので、独立性が非常に強いのです。それから、いつか両親が亡くなれば、私がこの障害をもった兄弟の責任をもたなければならないかもしれないという思いがあるので、責任性が非常に強いのです。
 外にはそのように表出するのですが、内ではまだ幼く、まだ育つ過程なので、そのように忍耐し、外見では非常に責任感があり、独立性があるように見えるので、「ああ、この子は早熟だ」と人々は言いますが、内では愛を受けたいという欲望が非常に強いのです、こんな子供たちは。私もそうでした。
 それで、ある面では、私が受けるべき愛なのに、兄弟が障害があるという理由だけで両親の愛を全部取ってしまう、そのように考えるので、ある面では嫉妬心もあり、ある面では憎しみもあり、あなたのために私の家庭はこんなに苦しいんだという憎しみもあり。そうでありながら、同じ瞬間に、与えてあげなければならないし、私が持っている物を分けてあげないといけないし、そんな心…。このように二種類の、融和されない二つの心が常に衝突します、自分の心の中で。幼い年で、未成年者の立場でそれに耐えるのは、本当に大変です。
 人々は私に愛しなさいというけれど、私の心の中に(障害を持つ)兄弟に対する憎しみがあるので、それが大きな罪意識として現われ、それが表出できない、そんな形態をもつようになるように思います。私が振り返ってみると。
 そんな兄弟たちに、両親がやってあげられることは、実際、多くあります。私が今日、兄弟たちが感じること、どう育てれば良いのか、ゆっくり考えてみながら、両親がやってあげられることを5つにまとめてみました。

 第一は、両親が障害児童について、天宝会の会員の子供に対して、両親のせいにしないことが非常に重要だと思います。

 父母たちはよくこんなことを言うじゃないですか。子供がこんなに障害をもって生まれたのは私のカルマ(業)だ、私の業報だ、こんな話をよくされるようです。そうでなければ、先祖に罪があって子供がこんなふうに生まれた。また、争ったりもされますね。あなた側の先祖に問題があるとか、いや、そうじゃない、日本の国がこうだから…、などと言われますが、そんな話をすることは子供が大きく傷つきます。
 なぜかと言えば、私にもそんな血統があるので、私にもそんな罪が連結するかもしれないなと心理的に考えるので、父母がこんな話を子供たちの前でしないことがとても重要です。そのように血統があるので、子供たちは非常に恐ろしく思うし、自信をなくします。それじゃあ、私は根本的に何か欠陥があるのかと、我知らず考えるようになるので、そんな話を本当にしないことが、第一に重要です。

 それから、兄弟に障害児童がいることを恥ずかしく思わないよう教育をしなければなりません。

 私の弟の場合は、5歳ぐらいの知的水準があって、今、27歳ぐらいになりました。私より5歳年下なので。
 ところで、私の弟はそんなにひどくはありません。今、肢体(障害)2級を受けています。1級がいちばん深刻ですが、2級を受けていて、独りで挙動することができ、言葉も話せて、本を読むこともでき、足し算引き算をすることもできます。ですから、そんなにひどい状態ではありません。ところが、私の知っている祝福家庭の中で、どんな家庭がいたかというと、この子の場合は肢体障害児童でしたが、もちろん、歩くことはできましたが、ろくに話すことができず、いつも横に小便を入れる缶をさげていました。腎臓に問題があったので、正常に小便ができないので、いつも缶をさげていました。夏になると、その子が来るととても臭いのです。いつも小便缶をさげて歩かないといけないので、とても臭いので他の子供たちも近寄らないし、はげしくからかったりしました。
 客観的に見ると、私の弟の状況とその子の状況は、私の弟がはるかにいい状況でした。ところが、小便缶を下げて歩いていた子供のお母さんは、その兄弟たちにこのように教えました。「弟について、絶対に恥ずかしいと思ってはいけません。弟がいるから、あなたたちがいるのです。弟を通して、あなたたちがどれだけ多くのことを学んだか。他の人に配慮することを学んだし、お父さんとお母さんもこの子を通してもっといい人間になった。愛することができる人間になった」。このように教えたと言います。
 ところで、私の両親はこんなことは言いませんでした。こんな話をしなければ、こんな教育をしなければ、恥ずかしく思いなさいと言うのと同じことになります。なぜかというと、子供たちはどのように考えるか分かりません、このような状況に対して。父母が与える額縁(フレーム)を通して、自分の弟をどう見ればいいのか、自分の兄弟をどう見ればいいのか考えるので、この子を恥ずかしく思ってはいけない。あなたの兄弟だ。私たちに神様が下さった、本当に亨進様が与えてくださった名前のように、天の宝物なんだ。私たちの家庭に対して天が下さったプレゼントだとお母さんは思うよ、お父さんは思うよ。
 このように子供たちに教育しなければいけません。ですから、その子の状態がどうなのか、どれだけ悪いか、悪くないか、そんなことを離れて、父母がそのことを子供たちに教育することが非常に重要だと思います。

 一例を挙げると、ある教授夫妻がいます。恐らく、私が名前を言うと皆さんが知っている教授夫妻です。その方に8歳の子供がいます。その子に肢体障害があります。私も本当に知りませんでした。その方は本当に華々しく活躍していて、いつも明るいので、そんな子供がいると知りませんでした。
 ところで、家庭訪問すると、その子供を座らせて、私の息子で…と説明してくれました。私が、こう言いました。「どれほど大変でしょうか。どうして、こんな状況なのに明るくしておられるのでしょうか。本当に知りませんでした」と話すと、その方は、こう言いました。「私はこの子を通して、傲慢でなくなりました」。こう言ったのです。「自分は全て持っていると思っていました」と話すのです。自分はたくさん教育を受けて、いい仕事もあって収入もよくて、全てあるので、世の中を当然のように考えていたのに、この子を通して私は傲慢にならないことを学んだ、と話されるのです。私がその話を聞きながら、本当に神様は試練の中でもこのように祝福をくださるのだなあと、本当に感動深く感じたことを覚えています。

 三番目は、障害児童の兄弟たちに、「あなたは本当に大切な(貴重な)子供だ。お父さん、お母さんはあなたを大切に思っている」ということを、機会がある時に、言ってあげなければなりません。

 なぜかというと、父母は本当に余裕がないじゃないですか。障害児童の世話をするために本当に余裕がないので、余裕がなくて愛してあげられないのに、子供たちの立場では愛されなかったので、「ああ、お母さんは私を愛していないので、愛してくれないんだ」と考えるようになります。ですから、あなたが本当に大切だと話してあげなければなりません。
 亨進様は子供たちと1対1、子供を抱いてあげなさいという話を聞いたと思います。ある場合には、障害児童が家にいると、その子供を置いて行けない状況もあるじゃないですか。そういう時は創意力を発揮してもいいと思います。1週間に1度、日を決めて、その子供が食べたい食事を家で作って、それを与えながら、「これはあなたの日だ」と、そうしてもいいと思います。それから、1000ウォンぐらいあげて、「これで好きなものを買って食べなさい」と。このように1カ月に1度、そのように日を決めて、1週間に1度は多過ぎますね、1カ月に1度、その子供のために(何か)してあげたらいいと思います。兄弟が3人なら、毎月1人ずつ回りながら、そうしてもあげてもいいですね。そういう風に少し創意力を発揮して、子供たちに一人ひとりの子供の日を作ってあげる、その子供が大切で、お母さんにとって特別だ、その話、それを表現すること、話してあげることが非常に重要だと思います。
 それから、ある子供の日になった時、母親の心をその子供に話してあげるといいようです。お母さんが何々のことで苦しい、だから何々のことであなたがお母さんのために祈祷してくれたらいいな。お母さんが今日、総会に行くのだけど、お母さんがうまく話せるように祈祷してくれたらいいな。このように、その子に頼むことは本当にいいと思います。自分はまだ幼くて何もできないけど、お母さんのためにできることもあるんだ、私が力を与えることができるんだ、そんなことを子供たちが感じることができるし、お母さんにとって私は大切なんだ、私がお手伝いできる存在なんだ、そんなことを感じられるようになります。

 それから四番目は、祝福というものを念頭において、「あなたを愛してくれる人が必ずいるよ」と話してあげることが重要だと思います。

 私たち統一教会員はみんな祝福を受けますが、今日も見たように天宝会の会員たちも祝福を受ける姿を見ましたが、障害児童の兄弟たちは自分たちは障害がないのに不安(恐れ)があります。私のような人間と誰が祝福を受けたいと思うだろうか、そんな思いがあります。
 だから、「あなたを愛してくれる人は必ずいるよ」、「あなたを理解して受け入れてくれる人が必ずいるよ」という、そんな話を子供たちにしてあげることはとても重要です。でなければ 子供たちは祝福を受ける前にとても不安に感じ、私を受け入れてくれる人がいないので、私は理想家庭を実現できない、私は四位基台を成せない、そんな漠然とした不安感が子供たちに生まれます。
 そうだとすれば、私の話をしてあげることもいいと思います。ヨナ様は障害をもった弟がいたけど、父母様の家庭に入って立派にやっているじゃないの。亨進様のように、あなたを心から愛してくれ(る人がい)て、あなたは立派に四位基台を成すことができるよ、それは真の父母様があなたに願われていることよ、と教えて、話してあげる。幼い頃から話してあげることがとても重要だと思います。そうすれば、子供たちは漠然とした不安感がなくなります。

 それから五番目は、子供たちが善良なことを当然と考えてはいけないということを、私がしっかりお願いしたいと思います。

 子供たちは、さっきお話したように憎しみ、嫉妬、愛、同情などとても多くの感情が交じっていますが、私たちは生活の中で見ると、この子はいい子だ、言うことをよく聞く子だ、このように考えやすいのです。なぜかというと、障害児童の面倒をみることが非常に大変なので、あるいは、そうなるのが自然なのかもしれません。
 また、ある時は、とても腹が立つ場合があるでしょう。私も思い返すと、「お母さんはどうしてそんなに極端な表現を使うのだろうか」、「もう少し理解して受け入れてくれればいいのに、どうしてそうできないのだろうか」、そんな思いがする時がありました。幼かった時は。ところが、いま考えると、私が子供を生んで育ててみて、それもあり得るなと思います。私はこんな平凡な子供を育てるのも大変なのに、(障害をもった)弟を育てながら、どれほど多くのストレスと、どれほど多くの心痛があっただろうかと思うと、すべて理解できます。しかし、成長期には、お母さんがそんなに私に対して腹を立て、ストレスを受ける姿を理解できません。単に、お母さんは私が嫌いだからそうなんだと考えやすいのです。
 ですから、天宝会の会員のお母さん方も、人間なので腹が立つ時があるはずです。そういう時、腹が立っていても、腹が立った(怒った)後、それが少し鎮まった時に、「お母さんは、こんなことで腹が立っていたの。あなたのせいじゃなかったの」。このように、そんなことが起こった時には、子供たちに「ごめんなさい」と言ってあげて、さらに、「これこれで、あなたが手伝ってくれて、本当にありがとう」と話してあげることが、障害児童の兄弟たちのアイデンティティー発達のために非常に大切だと思います。自分を大切に思うために、非常に重要だと思います。

 私が立場もわきまえず、主観的な考えを列挙しましたが、私も見ながら、如何なる場合にも私たちを放棄しない真の父母様の姿を目の当たりにしています。それから、復帰摂理を導きながら、人間たちを何度も何度も放棄しうる状況でも、私たちをずっとつかんで放さず、復帰摂理をずっと導きながら中心人物を立てられる神様の復帰摂理路程も目の当たりにするようになります。
 そうです。私は、ここに来ながら誓ったことがあります。私は、天宝会の会員の皆さんを見ながら、実際に私の母のようだと思いがします。それから、どんな考えをもっているのか、私は心情で感じられます。私が一つ考えたことは、ここに来て絶対に泣くのじゃない、そんなことを誓ってきました。なぜかと言えば、今は一緒に泣いて同情するのでなく、どのように勝利して、どのようにしてここで私たちの子供をもっと立派に育てられるか、それをここで論議する場所なので、そうしたくないと誓いながら来ました。

 聖書でも、天国に入る人は本当に、幼子のように純粋でなければならない、こんなみ言があります。ところで、天宝会の子供たちを見ると、本当に幼子のように純粋じゃないですか。私の弟を見ても、本当に幼子のように純粋です。ある意味では、どんなに幸福だろうか、太平だろうか。そんな考えももつようになるのですが、そのように考えると、本当に天国に近い子供は、私でなく私の弟だなあ、こんなに考えたりもしてみます。そうして、このようにできるのも、この子供のためには幸せかもしれないな、と考えてみたりもします。
 もちろん天宝会の子供たちは育てるのが難しく、他の子供たちと違いますが、その子供たちは私たちの二世で、とても大切な子供だということ、また、真の父母様の前に大切な子供であることは変わらないと思います。ですから、私たちみんな力を合わせて、本当に大切な二世として育てられるように共に努力しましょう。


このあと、天宝会の会員と質疑応答の時間をとって下さいました。詳細は会報をご覧ください。



天 宝 会
本ホームページの記載内容について無断掲載を禁じます。すべての著作権はフルーツバスケット又は原著作者に帰属します。
This website and all images are protected by (C) Copyright 2009, Tenpokai.
ホーム サイトマップ このサイトについて